実は博多の街を作ったのは豊臣秀吉だった!

■荒れ果てた博多の街の復興は「太閤町割り」から始まった

福岡市を地図で見ると、あることに気が付きませんか?

特に那珂川と御笠川に挟まれたエリア、博多座のある地下鉄中洲川端駅のあたりから呉服町周辺、そして福岡サンパレスのある築港本町あたりにかけての一帯を見てください。町が綺麗な碁盤の目状に配置されていることが分かりますでしょうか。

この街並みの基となったのは、何と豊臣秀吉の「太閤町割り」と呼ばれる区画整理事業なのです。

戦国時代、当時から貿易で栄えていた博多の町は、大内氏、毛利氏、龍造寺氏、島津氏などが入れ代わり立ち代わり進出し長期にわたり戦場となった結果、町は見るも無残に荒廃してしまいました。

その後1587年に九州平定を目指した豊臣秀吉によって博多の街は平穏を取り戻しますが、荒廃した街を立て直すのは容易ではありません。

そこで秀吉は「太閤町割り」を行い、復興に力を注いだという実績が現在まで続く街並みとなって残っているのです。

■太閤町割りとともに楽市楽座制によって復興した博多

豊臣秀吉が行った復興事業は、街並みの整備だけではありません。

楽市楽座と呼ばれる商業政策を導入、博多の街に武士が立ち入るのを禁じ、商人が自由に商売できるエリアを築いたのです。

これにより博多の街は急速に復興し、再び貿易を中心とした日本有数の商業地へと発展していくのです。

この背景にあったのは、太閤町割りに全面的に協力した有力な博多商人の影響があったとも言われています。

商業の発展を何よりも重んじて町づくりを行った豊臣秀吉によって、博多の街は現在も日本有数の商業都市として多くの人々を魅了し続けているのですね。

■山笠の「流(ながれ)」は当時の町割りによって生まれた!

実は太閤町割りによって生まれた町が基準となって山笠の流れとなったと言われています。
福岡市の公式シティガイド「よかナビ」に以下のように記されています。

舁き山笠は7つの流(ながれ)ごとに1基ずつ作られ、流ごとに舁かれます。流とは、10~15くらいの町が集まって1流とする、いわば町の自治組織で同時に山笠をはじめとする祭りを運営する単位です。
博多にこうした組織ができたのは、1587年に豊臣秀吉が行った「太閤町割り」と呼ばれる区画整理によるものです。秀吉はさらに楽市楽座などの施策で博多商人の商業活動を保護しました。(よかナビより引用

このように、福岡は古くから栄えた町だけに、多くの歴史を積み重ねて作られた町だということが分かりますね。今私たちが暮らしている街の歴史、少しずつ学んでいけばもっと楽しい福岡ライフが送れるかもしれませんよ。

※情報は2018.3.20時点のものです

H.Katsura

福岡出身。就職で東京へ行き、20年の都会生活を経て昨年Uターンしてきたフリーライター。 地元を離れて初めてわかる福岡の面白さをあらためて実感中。

関連タグ

この記事もおすすめ