南の島で人生をリセット!? 勝手に『西郷どん』ツアーやってみた

芯の強い子を育てる運動スクールMIKI・ファニット代表の太刀山美樹です。
皆さんは、ふと考えることはないですか?
自分の人生はこれでいいのかなと。
人生の後半戦を迎えた私も、そろそろ残りの生き方をじっくりと考えようと思い立ち、九州南方海上に浮かぶ沖永良部島と奄美大島を訪れました。

どちらもNHK大河ドラマ「西郷どん」の舞台となった島です。
西郷隆盛(1828~77年)は、薩摩から遠く離れた南の島へ、2度の島流しにあいます。1度目は奄美、そして徳之島を経て沖永良部島へ。

1度目の奄美大島では、2番目の妻となる愛加那(とぅま、あいかな)と出会い、蟄居の身でありながら2人の子どもに恵まれ、愛情にあふれた生活を送りました。が、2度目の沖永良部島は過酷です。薩摩を思ってとった行動が藩主・島津久光の怒りをかい、罪人として沖永良部島へ流されます。そこでの住まいは、吹きさらしの牢屋。牢屋の中の西郷さんは、現代の私たちがイメージする犬を連れて堂々とした体格の西郷さんではなく、やせ細っていました。

海も空も、どこまでも青い南の島で、雨風にあたり、蚊も多く、狭い牢屋にて、死を覚悟し、食を自ら減らしていった西郷さん。良かれと思って動いたにもかかわらず、そんな状況に追いやられ、なんで俺がこんな目にあうんだ・・・と、薩摩に恨みを持っても当然だと思うのですが、この地で西郷さんは『敬天愛人』という思想にいたっていったそうです。

天を敬い、人を愛する。

「そのために、人生、自分のやるべきことはなんなのか?」

西郷さんは島の人と触れ合い、島の子どもたちに読み書きを、村の若者に学問を教えました。西郷さんを慕った若者の一人は、のちに村長へ育っていったそうです。

西郷どんのロケ地はこのような感じです。

西郷どんのロケ地はこのような感じです。

この沖永良部島で、私が充実した時間が過ごせたのは、お世話になった島の皆様のおかげです。
特に一緒に旅を巡っていただいた、南日本新聞通信員の新納忠人さん。

新納さんのアテンドのおかげで、沖永良部島でとても一泊とは思えない、濃密な時間が過ごせました。鳥や植物の名前、島の歴史や謂れなどを教えていただきながらの島めぐり。真っ青な海、遠くには海ガメが見える岬、田皆岬、半崎、フーチャ、ゴツゴツした石のビーチロックや海、日本一のガジュマルの木、芭蕉布会館・・・

ジャングルを抜け、洞窟にも入りました。今まで鍾乳洞に入ったことはありますが、今回は別格。まさに洞窟探検、真っ暗闇の中でゴゴ〜〜っと水流の音が激しく響き、本当にすごい迫力です。

「もう、ちょっとこれ以上は、こ、怖いです」と怯む私に、新納さんは、優しい声で「さあ、ここで電気を消して暗闇を体験しましょうかね」。。。
「絶対にいやです!実は私、びびり屋、いえ怖がりなんです」と、断固拒否しました。

ちなみに、この島は過去に一度、海中にしっかり水没したことがあるため、ジャングルに入っても、奄美や沖縄にいる怖いハブは出てこないそうです。とはいえ、ガイドしてくださる方がいないと、まずたどり着けることはないと思います。

「西郷どん」のロケ地に行く途中、縄文時代の貝塚遺跡を通りかかりました。車を降りて棒で地面を撫でると(ちょうど除草剤をかけていたあとだったらしく)、日頃は草むらで見えない地面がむき出しに。なんと、そこで縄文土器の破片を見つけました!!まさか縄文時代のものをこの手で見つけるなんて、びっくり。十分に見て楽しんだ後、新納さんに預けました(大切に保管し、学芸員の方に渡されるそうです)。

食事は、看板のないコンテナのお店「お食事処やまはた」で。ここでは、800円とは思えない迫力の海鮮丼を食べ、夜光貝を目の前でさばいてもらいました。

そして何と言っても忘れられない思い出になったのが、島の南にある知名町のパッションフルーツ農家の東さん宅での農泊。本当にお世話になりました。

あまりの楽しさに、夜の食事の写真を撮り損ねました・・・。

こちらは朝ごはん、パッションフルーツとマンゴー畑の前にある外のテラスで、風を受けながら食べました。

その(写真を撮り忘れるくらい)楽しかった夜はどんな夜だったかというと・・・

沖永良部農業水利事業(珊瑚でできている島では、昔から水の問題は大きく、重要な事業だと知りました)のために沖永良部島に赴任している前佐賀市副市長の馬場さんの紹介で、地元の区長や議長、役場の方や、自衛隊員、ご夫婦連れやご家族連れが集まり、とても和気あいあいとした雰囲気でした。

黒糖焼酎を酌み交わし、島の暮らしぶりを聞きながら、三線を鳴らして唄う人たち。面白かったのは「夜光貝」を数ヶ月かけて宝石みたいにすること。その磨いている途中や、出来上がりを見せてもらい、ゴツゴツした大きな貝の殻がまるで真珠のような輝きに変化することに驚きました。

料理も美味しい!地元で獲れた魚の唐揚げや黒豚をはじめ、島豆腐、煮物、味ご飯、パパイヤのぬか漬け・・・。

またパッションフルーツの上部分3分の1を切り取り、酒器代わりにして、中に黒糖焼酎を入れ、スプーンでかき混ぜてそのまま飲むオシャレなカクテルにも挑戦。甘酸っぱい香りとツブツブの食感で、おいしくいただきました(お酒が減るとすぐに焼酎が注がれます。笑)その焼酎は、地元の銘酒「天下一品」アルコール度数は30度。美味しくて効きますので、飲み過ぎには注意です。

実は私、三線を持っています。弾き方がわからず、習いにいく時間がなかったので今回は弾けませんでしたが、練習して、いつかこの海を見ながら三線を弾いてみたいと思っています。

続いて、沖永良部島から奄美へ―。

西郷さん以外に、私が奄美で感銘を受けたもう一人の人物が、日本画家「田中一村」(たなか いっそん、1908年7月22日 – 1977年9月11日)です。

貧しい暮らしの中でも、奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くかつ繊細に描いた一村。「日本のゴーギャン」と称される一村のことを、奄美にある田中一村記念館で私は初めて知りました。

一村は、栃木県生まれ。東京、千葉で暮らし、50歳のときに奄美へ移住したそうです。体は弱く生涯孤独でお金はなく、日給430円の紬の色つけを3年間続け、その後2年間、絵を描き続ける。仕事帰りに魚屋さんに立ちよっては、色彩豊かな南の島の魚たちをじっと眺め、そのまま絵を描いていたとか。店からすれば邪魔だと怒っても良さそうなものを「上手い絵だな」と見ていたそうです。そんなおおらかな島の生活の中、一人心筋梗塞で倒れ、69歳の生涯を閉じます。まさかご本人は自分の死後、記念館が立つようになるとは思わなかったかと思います。

一村の作風が奄美に移り住んだ後に変わったのは、素人の私が見てもはっきりわかります。より繊細に色彩鮮やかに変化しています。私は『蘇鉄と夕陽』の絵の前で立ち止まってしまいました。風で揺れる立派な蘇鉄の葉の奥に、今日も海にしずんでいく夕陽が見える。毎日毎日。ザザ〜っという波の音が聞こえ、その場にいるような感覚になりました。⇒まとめサイトはこちら。

さて、島から福岡に戻った日、何気なくテレビで宇宙飛行士・毛利衛さんのインタビューを目にしました。毛利さんが宇宙へ初めて行ったのは40代。年齢的に少し不安もよぎったそうですが、「55歳から、日本地図を作った伊能忠敬を思いだした。私も地図を作りに宇宙へ行ったんです」と話していました。

55歳から72歳になる間に、日本全土の測量とともに日本地図を作るという偉業をやり遂げた伊能忠敬。改めてすごいです。

沖永良部島と奄美大島の島旅を通じて感じたこと―。

私も人生半ばです。この年齢だからこそ、次の人生のステージがうっすら見えてきて、考えることがあります。
何をすべきで、何をなし遂げていくのか・・・

「人生再生」というには、まだまだ修行が足りませんが、じっくりと考える時間となりました。このような機会が持てたことに、本当に感謝です。ありがとうございます。

最後に。奄美の特産品のひとつに『みき』があるそうです。みきは、お米をさつまいもで発酵させたもの。甘酒のような食感で、夏は冷たく冷やして飲むそうです。

折しも私の名前も、『みき』。
奄美のみきは、素朴な味ですが、何度も口に運ぶとくせになりそうな味で、沖縄のみきとはまた少し違う味でした。

さて、太刀山『みき』は、人生折り返し地点から、どんな味に作り上げるか?
人生再生、いや、いい味になるように、今後もフツフツと、ゆっくりじっくり、『人生発酵』してまいります。

へへへ、人生たのしみ。たのしみ。

★追伸★

TED×Fukuoka での登壇映像をアップしてもらいました。
『親と子の物語〜それぞれの道〜』

会社のホームページからも見ることができます。 

MIKI・ファニットを起業して行った、私の思いの原点です。お時間あるときに12分ほど、お付き合いください。

#TED×Fukuoka

※情報は2018.6.11時点のものです

なまはげみき 太刀山美樹

福岡県筑後市出身。23歳で結婚出産。地域のママサークルが口コミで広がり、その後「きみ、おもろいね」とNHK福岡や、学校講師に、街角でスカウトされ経験を積む。2006年MIKIファニットを起業。「どうせ無理と諦めてる子いねえ~が!」と喝をいれる<幼児教育界のなまはげ>としても活動中。好きな言葉「来た球は打つ」

MIKIファニット http://www.mikifunnit.com

個人ブログ⇒http://mikitachiyama.com/blog

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