【連載小説「博多座日和」】第二話・「初恋」~緞帳が開いた瞬間

辺りに漂う雰囲気が変わったような気がして、恭子はスマートフォンの画面から顔を上げた。
ちょうど花嫁を乗せた人力車が一台、博多座の大提灯の前を通り過ぎて行くところだった。
「ジューンブライドか…」
そうつぶやいて、再びスマートフォンの画面に目を移したものの、そこには「受信」や「着信」を示す表示はなかった。

 

大学に入学してすぐのこと、恭子は入学式でたまたま隣り合った同級生に誘われ、テニスサークルの新入生歓迎コンパに参加した。
生まれ育った島原半島・雲仙市を離れ、福岡で一人暮らしを始めたばかり。生まれて初めて参加するコンパの雰囲気に恭子は溶け込めずにいた。
テーブルの隅に一人ぽつんと座っていた恭子に声をかけてきたのが、当時同じ大学の医学部三年生だった松坂だった。
決して押しつけがましくなく、穏やかな物腰で語りかけてきた青年に対して恭子が好意を抱くのにさほど時間はかからなかった。
それから間もなく、恭子の初恋は、薫風に揺れる桜桃のように色鮮やかに、そして瑞々しく実を結んだ。

二人は同じ年に大学を卒業し、松坂は福岡市内の総合病院で研修医として、恭子は福岡市役所の職員として社会人としての第一歩を踏み出した。
そして、熟れた桜桃の実が割れ、風に煽られて地面に落下するように、恋の終焉は突然訪れた。
恭子が松坂から別れ話を切り出されたのは、朝から土砂降りの雨となったある日の昼下がりのことだった。
「俺たちの仲、そろそろ整理しないか?」
松坂の口を衝いて出た突然の言葉に、恭子の思考回路は、液体窒素を噴霧された薔薇の花びらのように一瞬にして凍りついた。
お互い社会人になって、すれ違いの日が増えた。
とはいえ、まるで年度が変わった書類をファイルに綴じ込んで書庫に仕舞うような表現で、一方的に二人の関係に終止符が打たれるとは。
想定外かつ急転直下の展開に、恭子は茫然自失の感で松坂の後ろ姿を見送った。

 

係長の中井から「博多座六月大歌舞伎」のチケットを渡されたのはそれから十日ほど経った、ある週末の日の終業後のことだった。
「カミさんと行こうと思って買ってたんだけど、急用が入ってね。市の職員として博多座のことは知っといた方がいいから、ぜひ行ってきなさい」
心も休日の予定もぽっかりと穴が開いた恭子に断る術はなく、手の中には唐草模様がデザインされた博多座のチケットが残った。
十時を二分ほど過ぎたころ、アジア美術館の方から転がるようにして駆けて来る人影が見えた。

よく見ると、今春、恭子が所属する職場に配属された新人職員・桝見哲だった。
中井から声をかけられたとき、たまたま同じ場に居合わせたため、この日一緒に歌舞伎を観ることになったのだ。
聞けば、待ち合わせ時間に合わせて地下鉄に乗ったが、博多座直結の川端出口ではなく、真反対の中洲出口から出てしまったとのこと。
恭子は手に持っていたスマートフォンを鞄の中に放り込み、汗だくになった哲を気遣いながら博多座のエントランスに向かうエスカレーターに歩を進めた。

中井からもらった席は、一階客席の壁際に並んだペアシートだった。
席に腰かけ、舞台に掛かる緞帳を観た瞬間、松坂と初めて博多座を訪れた時の光景がフラッシュバックのように脳裏に浮かんだ。
「学生は当日券が半額なんだよ」
そう言う松坂に案内されて、恭子は生まれて初めて歌舞伎を観た。
歌舞伎も素晴らしかったが、なにより、両親に連れられて小学生のころから博多座を訪れていたという松坂の豊富な知識に恭子は驚きを隠すことができなかった。
「芝居の幕と幕の間の休憩時間にいただくから『幕の内弁当』って言うんだよ」
「緞帳が開いた後、舞台を隠していた幕がすとんと落ちて芝居が始まったよね。これが、物事が始まることを意味する『幕が切って落とされる』の語源らしいよ」
「博多座の化粧室はすごく奥まったところにあるだろ。順番待ちしている姿をロビーにいる人から見られないように、という心遣い。こういう細かいところまで配慮が行き届いているところが、この劇場の素晴らしいところだよね」
押しつけがましくない、それでいて明快な説明に恭子の松坂への想いは、いっそう深まっていったのだった。

 

緞帳が開いた。
目の前で繰り広げられる歌舞伎の舞台は、ぽっかり空いていた恭子の心の中に何か温かい液体のようなものを少しずつ流し込んでくれた。
終演の幕が閉じたとき、恭子は満足感と同時に何となく切ない思いがこみ上げてきて、涙が自然とこぼれ落ちた。
そのときだった。
恭子の目の前に白いハンカチが差し出された。
隣に座った哲が口をへの字にして、ギョロッとした目でこちらを見ている。
恭子は素直に「ありがとう」と言ってハンカチを受け取り、押さえるようにして涙を拭った。
同居している母親の手によるものだろう。きちんとアイロンが掛けられたハンカチからは、ほのかに石鹸の香りがした。
まるで修行僧になったかのように、緞帳の閉まった舞台を凝視して固まっている哲に、「出よっか」と明るく声をかけて恭子は席を立った。
外に出ると生暖かく湿った風が恭子の頬をなでた。
川端の街、そして博多の街に、夏が訪れようとしていた。

※この物語はフィクションであり、登場人物はすべて架空のものです。 

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※情報は2015.7.23時点のものです

博多座

住所福岡市博多区下川端町2−1
URLhttp://www.hakataza.co.jp/

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AKASAKA BOY

謎のライター

1978年福岡市赤坂生まれ。福岡の街の魅力を小説形式で発信中☆

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