
【連載小説「博多座日和」】第六話・「風立ちぬ」~屋台でつながった点と点
その夜、中井修一は部下の本田恭子、桝見哲(サトシ)と天神・渡辺通り沿いにある馴染みの屋台で、グラスを傾けていた。
十月に入り、福岡の街は夏場の猛暑がまるで嘘だったかのように、めっきり秋めいた雰囲気に包まれ、博多湾を渡ってきた涼やかな風が屋台の赤い暖簾を揺らしている。
コの字型カウンターの角を挟んで反対側に座る恭子が、おでんの大根を箸で半分に割りながら、思い出したように言った。
「そういえば、桝見くん、初任給でお母さんを博多座に招待したんですって?」
突然話を振られた哲が思わずせき込む。ちょうど頬張っていたおでんの卵がのどにつかえたらしい。狼狽する哲には構わずに恭子が続ける。
「私が通っている西新の美容室のアシスタントに明美ちゃんって子がいてね。この前、髪を洗ってもらいながら世間話をしてたら、自分の同級生がこの春福岡市役所に入ったっていうの。何気なく名前を聞いたら、『桝見哲』って言うから私びっくりしちゃった。そのとき、明美ちゃんから桝見くんがお母さんに初任給で博多座の券をプレゼントしたって聞いたのよ。素敵じゃない。私、桝見くんのこと見直したわ」
「明美のやつ…」と言って唇を噛みつつ、哲が事情を説明し始めた。
「うちの両親、自分が小さいころに離婚してて、母親が女手一つで自分を育ててくれたんですよ。初任給でなにかできたらとずっと思ってて、一番安い席だったんですけど、けっこう喜んでくれてよかったっす。」
おでんのこんにゃくをつつきながら、恥ずかしそうに語る哲。そしてその哲を潤んだ瞳で見つめる恭子。心なしか屋台の中の温度が上がってきたようだ。
「博多座って、なんかいいよな。特別な空間って感じがして」
そう呟いた中井の後を恭子が継いだ。
「博多座といえば、私も学生時代よく行ってたんです。学生は当日券が半額ですからね」
いままで黙って三人の話を聞いていた大将が冗談めかして言った。
「彼氏と二人で行きよったっちゃろう?」
「そうですよ」と恭子があっさりとした口調で返す。
そのときだった。
ガタッという音とともに、中井と恭子の間に座っていた哲が、白目をむき、椅子に座ったままスローモーションで真後ろに倒れていった。まるでプロレス技のバックドロップを受けたような形で、哲の後頭部が地面に叩きつけられ、「ごっ」という鈍い音がした。
「いててて…」
何ともなかったように立ち上がる哲。普通なら大怪我を負ってもいいような態勢だったが、相当頭が固いのだろう、周りの人たちの不安顔をよそに、哲は後頭部をさすりながら平然としている。
「あんた、大丈夫ね。これでしばらく冷やしとき」慌てて飛び出してきた女将さんが保冷剤を哲に渡した。
気を取り直して恭子が続ける。
「彼、小学生の頃から親御さんと一緒に博多座に行ってて、博多座のこととか歌舞伎のこととかとても詳しくて、いい感じの人だったんですけどね。お互い社会人になってすれ違いが増えて、結局別れちゃったんですよ」
気の毒そうな顔をする大将たちとは対照的に、哲だけどことなくほっとしたような表情を見せている。
「男はゴマンとおるんやけん、もっといい男が見つかるばい。意外と近くにおったりしてな」
大将がその場を取り繕うように明るく言った。
そのとき、折からの風に乗って生臭い匂いが中井の鼻を突いた。
周囲を見回し、その発生源に気づいた中井は大声で言った。
「女将さん!さっきこいつに渡したと、保冷剤やなくて冷凍イカの切り身ばい!」
屋台中が笑い声で包まれた。
「なん、みんなで盛り上がっとうとね」
冷凍イカの匂いにまみれた頭と手を洗うためトイレに立った哲と入れ替わりに、丸刈りにした四十がらみの男が暖簾の隙間から顔を出し、中井の隣に腰を下ろした。赤坂の寿司屋の二代目・通称「若旦那」である。芝居好き、酒好き、話し好きで、仕事を途中で放り出して毎日のようにこの屋台にやってくるお調子者で、他の常連客からは親しみ半分、からかい半分で「馬鹿旦那」と呼ばれているのだが、その憎めない性格、物言いからこの屋台のムードメーカ的存在になっている。
中井がこれまでの話をかいつまんで若旦那に話した。
そこにちょうど哲が戻ってくる。
「災難やったな。でもチャンスをものにしろよ。ジャガイモ野郎!」
若旦那は中井の肩越しに哲の背中をポンと叩いた。
クスッと笑う恭子、ポカンとする哲を尻目に若旦那が続けた。
「そういえば、最近博多座つながりで面白い客に会ってさ。もともとは自分の叔父さんが中洲でやってる店の常連さんなんよ。ただ、その日は叔父さんの店が休みで、どうしても寿司が食べたくなったらしく、うちの店に初めて来たってわけ。八時を回って、そろそろ仕事を切り上げてここに来ようかなと思ってたところに入ってきて、そんとき親父は他のお客さんの相手をしてたんで、しょうがなく俺の前に座ってもらったと。そしたらその人、毎月博多座に行くみたいで、芝居の話で盛り上がっちゃってさ、店が仕舞えたあと一緒に飲みに行くことになったんだ。那珂川の川っぷちにその人の行きつけのバーがあってよ、またそこがマスター一人でやってる小さな店なんだけど雰囲気がよくてさ…」そこでコップに注いだビールを一息で飲み干し、あとを続けた。落語家か講談師かというような小気味のいい語りに屋台の中にいる全員が聞き入っている。
そこで、若旦那は何かを思い出したらしく、急に真顔になって言った。
「そういえば、その人、杯を重ねるうちにぽつぽつと自分の身の上話を始めたんよ。なんでも若い時に事業に失敗して、奥さんと小さな息子を残して家出したらしい。そのあと無茶苦茶働いて、いまは社員を何十人も抱える会社を経営しているらしいけど、やっぱりふとした拍子に置き去りにした奥さんと息子のことを思い出すんだと。ただ、もう二人と別れてから二十年も経ってて、消息もなんも分かんないらしいんだよ。」若旦那は、まるで煎じ薬を飲むようにして、グラスに入ったビールを一口すすり、困ったような口調で続けた。
「手がりが奥さんと子どもの名前しかないんよ。道端を歩いている人に聞いて回るわけもいかんし、どげんしようもないったい」
「ちなみに、なんていう名前なんですか?」
中井が訊ねる。
「うん、奥さんの名前が太平洋の洋でヨウコ、子どもの名前が哲学の哲でサトシ…だと」
若旦那が言い終わるやいなや、中井の隣に座っていた哲が椅子を「ガタッ」といわせて無言で立ち上がった。そして屋台の中にいる全員の視線が哲に向けられた。
沈黙に包まれた屋台の中に、おでんのグツグツと煮える音だけが響いていた。
※この物語はフィクションであり、登場人物はすべて架空のものです。
※本文章について、「私的使用のための複製」や「引用」など著作権法上認められた場合を除き、無断で複製・転用することはできません。
※情報は2015.9.9時点のものです
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