福岡グルメ小説“N氏の晩餐”/福岡市美術館ラストナイトと六本松「Bar響」のカウンター

※「N氏の晩餐」バックナンバー⇒https://fanfunfukuoka.com/n_dinner/

私の人生最初の思い出はここにある。

父親と二人で訪れた美術館。薄暗い館内と小難しい絵(当時はそう感じた)が並んだ展示室を回ったあと、大濠公園の池に面した開放的な食堂に入り、窓際の席に案内されたときの安堵感。父の前にはカツカレー、私の前にはスパゲティミートソースが運ばれてきたのを三十数年が過ぎた今でもはっきり思い出す。

それからこの美術館を何度訪れたことだろう。

2016年8月31日。

この美術館は37年の歴史にいったん幕を閉じ、そして2年半後に生まれ変わる―――。

閉館1時間前。館内にはまんべんなく人があふれ、最後の一日という高揚感と寂寥感が入り混じった異様な雰囲気が漂っていた。

二階玄関前の広場には櫓(やぐら)が組まれ、その周りを紅白の提灯が彩っている。

大濠公園の池に日が沈み、空が茜色に染まる。どこからともなく鈴虫の音が聞こえてきて、それと同時に櫓の周りに人が集まってくる。

やがてはじまった盆踊りの響き、その場にいた人たちが自然と輪になって踊りだす。

踊る人、歌う人、手を叩く人、静かに見つめる人。熱狂と静粛が混在する幻想的な光景を目の当たりにしながら、私の瞼の奥には、かつてこの場所を訪れた時の思い出の数々が走馬灯のように廻っていた。

やがて、予定されていたセレモニーがすべて終了し、あたりに静寂が戻った。

館内を通って一階の玄関から出ようとしたそのとき、お揃いの博多どんたくの法被を着た美術館のスタッフたちに囲まれて談笑している男性の姿が目に入った。

相手も私に気づいて、にこやかに片手を上げる。

私の月に一度の美食の友、通称“N氏”だった。

知り合いの店に寄るのでよろしければ、というお誘いに無論断る理由もなく、N氏と並んで歩きだす。

横断歩道を渡り、放送局と学校の間の細い路地を通って、住宅街の中をしばらく歩く。数日前までの熱帯夜が嘘のような心地よい夜風が吹いている。

10分ほど歩いたところで住宅が途切れ、目の前に長屋風の飲食店街が現れる。まさにそこだけ「昭和」が残っている感じ。その一画にあるバーの扉を開く。

8人も入ればいっぱいのコの字型カウンター。壁や天井のしつらえは小料理屋のようだが、壁に並んでいる洋酒の瓶やカウンターの上に置かれているワインの瓶やグラスからこの店がバーだということがわかる。

キリリと冷えた白ワインで乾杯。

お通しは、鶏の手羽元のトマトソース煮。

その優しい味付けに思わず感嘆の声を上げると、マスターは調理師免許取りたての頃、美術館の食堂の厨房で洋食の基礎を学んだことを教えてくれた。あの食堂でいろいろな人生が交錯していたのだという不思議な感覚と今日という特別な日にその話が聞けた喜びに体が震えた。

N氏とマスターが交わす、めくるめく美術と音楽の会話を肴にワインがすすみ、しっとりとしたお店の雰囲気も相まって、何とも言えない心地よさが体を優しく包みこむ。

最後にお店と同じ名前のウィスキーをロックでいただく。

柔らかくまろやかなウィスキーの香りが鼻に抜け、その瞬間、あの美術館の食堂で、父と向かい合わせに座っている光景が映画のワンシーンのように脳裏に浮かび上がる。

思わず目頭が熱くなり、目の前がぼやける。

もう一度グラスに口をつけ、ゆっくりと深呼吸しながら、私はそっとつぶやいた。会話に夢中になっているN氏とマスターには気づかれないように。

「2年半後、また逢う日まで…。」

※情報は2016.9.5時点のものです

BAR響hibiki

住所福岡市中央区六本松2-3-17 ARK京極街
TEL080-8952-3958

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