佐賀藩祖・鍋島直茂を知る展覧会 佐賀市の徴古館で開催中!

現在の佐賀市の地形は、江戸時代からそう変わっていません。佐賀藩を治めた鍋島家に伝わる、いまから210年ほど前の1810年ごろの古地図と、現在の地形図を重ね合わせた「佐賀御城下まち歩きマップ」を、鍋島家の歴史博物館「徴古館(ちょうこかん)」と、佐賀市の協働で作成し、皆さんに配布しています。

数百年、佐賀の町の地形が変わっていないことを示す証拠ですが、とくに道路や水路が重なるそうです。

 ※地図は(佐賀市)中部版、西部版、東部版の3種類。徴古館と佐賀市建設部都市デザイン課(℡0952-40-7103)で配布しています。

街あるきマップより(部分)。赤いラインが江戸時代のお城の区画。堀に囲まれた地形などはまったく変わらないのがわかる。

街あるきマップより(部分)。赤いラインが江戸時代のお城の区画。堀に囲まれた地形などはまったく変わらないのがわかる。

マップの裏には、佐賀市の名所とわかりやすいイラストの地図。これ1枚あれば、街あるきは万全☆

マップの裏には、佐賀市の名所とわかりやすいイラストの地図。これ1枚あれば、街あるきは万全☆

徴古館・主任学芸員の富田紘次さんによれば、

  「〝お国替え〟のなかった佐賀藩の歴史はそのまま、鍋島家の歴史と重なっています。皆さん、自分たちのルーツを考えるとき、たとえば縄文時代の遺跡を見て、『ここに私たちのルーツがありますよ』といわれても、ちょっとぴんと来ないでしょう?地形だったり、生活様式だったり、いまの私たちの生活に直結しているものならば、〝ルーツ〟と言われたときにぴったりくる。佐賀の場合、それは江戸時代の佐賀藩の時代につくられたものだと思います」

佐賀藩を創ったのは鍋島直茂(なおしげ)公(1538~1618)。織田信長や豊臣秀吉と同じ時代を生きた戦国武将です。

没後400年にあたる今年、直茂公の生涯と功績、後世への影響について、鍋島家に伝わる第一級の品々で紹介する『藩祖 鍋島直茂公と日峯社』展が、7月29日まで徴古館で開かれています(日峯とは直茂公の法名。日峯社とは、第8代佐賀藩主・治茂公が、藩祖・直茂公を明神<みょうじん>としてお祀りした社<やしろ>の名前で、現在の松原神社の前身です)。

鍋島直茂公(1538~1618)の肖像画(江戸時代)。豪華な台座に座り、真正面から描いた構図はこの当時としてはとても珍しい。1772年に日峯(にっぽう)明神として、神となった姿をあらわしている。写真提供・徴古館

鍋島直茂公(1538~1618)の肖像画(江戸時代)。豪華な台座に座り、真正面から描いた構図はこの当時としてはとても珍しい。1772年に日峯(にっぽう)明神として、神となった姿をあらわしている。写真提供・徴古館

直茂公は、豊臣秀吉の信任がとても厚く、佐賀藩をおこす以前、まだ、龍造寺(りゅうぞうじ)家の家臣であった時分から、秀吉からの書状には、直茂への特別なメッセージが記されています。

本能寺の変のときは、毛利氏と戦っていた秀吉が、直ちに毛利氏と和睦を結び、取って返して光秀を追い詰め、首を討ち取ったという知らせが、直茂公に「密書」の形で送られています。

展示室風景。戦国時代のものから明治のものまで、選び抜かれた逸品(いっぴん)ぞろい。説明書きも丁寧でわかりやすく、展示の数も多すぎず……ゆったり見て回れる。写真提供・徴古館

展示室風景。戦国時代のものから明治のものまで、選び抜かれた逸品(いっぴん)ぞろい。説明書きも丁寧でわかりやすく、展示の数も多すぎず……ゆったり見て回れる。写真提供・徴古館

今回の展覧会では、この密書の現物が展示されていますが、縦10センチ程度の手紙を書いた和紙をくるくる巻いて、まるでタバコのような形にして、髪の中などに隠して運んだのだそうです。

徴古館のFBでは、「密書はどんな状態で届く?」という記事で、詳しく説明してあります。

https://www.facebook.com/nabeshima.chokokan/posts/1386859511349423

この密書のおしまいのほうに、秀吉から直茂に「この前、贈ってくれた南蛮帽子」へのお礼も書かれていますが、当時、稀少品だった西洋の帽子を、直茂公は珍しいもの好きの秀吉にプレゼントしていたのですね。

真ん中の屏風(びょうぶ)は、豊臣秀吉が行なった朝鮮出兵のときの「蔚山(うるさん)城の戦い」の一場面。写真提供・徴古館

真ん中の屏風(びょうぶ)は、豊臣秀吉が行なった朝鮮出兵のときの「蔚山(うるさん)城の戦い」の一場面。写真提供・徴古館

秀吉といえば、朝鮮出兵したことでも知られます。このとき、直茂・勝茂の父子は、ほかの藩は、複数の所帯がグループになって一個の兵団を組織する中、単独で12000人もの兵を任され、唐津の名護屋(なごや)から朝鮮へ赴き、現地に着くと、朝鮮と中国の兵に取り囲まれ、籠城を続ける熊本の加藤清正公らを救うために、夜襲を強行。山肌の急斜面を、黒田長政や直茂公など日本からの援軍が駆け下り、冬で凍て付いた河を渡って、敵の大軍の中に切り込んで行く、「蔚山(うるさん)山の戦い」の屏風絵も展示してありますが(添付写真)、これが、見た目にも新しい……。

富田さんが面白いエピソードを教えてくださいました。

――朝鮮出兵から帰った後、直茂公は、蔚山城の戦いに参戦した兵で、絵心のある者に現地で描き取らせた下絵を元に、本格的な絵を仕上げて、屏風(びょうぶ)に仕立てた。それを他藩に貸し出してその藩が絵柄を写し取った(昔はコピー機もなければ、スマホでパシャッと撮れませんので、絵がその代わりだったんですね)。

幕末から維新にかけて、鍋島家オリジナルのこの屏風が難に遭って焼けてしまった。すると、こんどはほかの藩が、自分のところで写した絵を鍋島家に貸してくれて、それで新たに作り直したのが今回、展示されている屏風です、とのこと……。

世の中、持ちつ持たれつですね。

また、この屏風は直茂公が描かせたにも拘わらず、直茂公や佐賀藩ののぼりが中央に描かれるわけでも、大きく描かれているわけでもない。ふつうに沢山いる軍勢の一つとして描かれているに過ぎず、あくまでも、ただの武勇伝ではなく〝より客観的な記録〟として屏風絵を残している。こういうところに、直茂公の実直で正直な人柄がうかがえるのではとのことでした。

朝鮮に行ったのが1592年ですが、大陸の冬はさぞ冷かろうと、秀吉から直茂公に「小袖と道服を遣わす」という心遣いの朱印状も紹介されています。

図録のお知らせ(徴古館FBより)。図録には、このイラストのような漫画のふきだしはついていませんので、あしからず。

図録のお知らせ(徴古館FBより)。図録には、このイラストのような漫画のふきだしはついていませんので、あしからず。

一番、面白いと思ったのは、朝鮮にいる直茂公宛に、石田光成・浅田長政・前田玄以ら、当時の秀吉の超側近5人の連名で届けられた正式な文書。

内容は、「太閤殿のご病状はようやく快方に向かわれています」というもので、日付は8月25日。

ところが、その1週間前の8月18日に、じつは秀吉はなくなっているのです……では、どうしてその事実を隠したかというと、「朝鮮へ兵を派遣した秀吉がいなくなったとなれば、日本から行っている武士たちが大混乱に陥って、無秩序な状態になる。それを避けるために、まだ秀吉は生きているように見せかけ、徐々に朝鮮から撤退させたのでしょう」と富田学芸員。

朝鮮から直茂公が持ち帰った大陸の技術は、佐賀藩独自の産業を育てました。そのうちの一つ、鍋島更紗(おもに木綿地に模様を染め出したもの)でできた掛け軸(絵の部分もまわりの部分もじつは一枚の反物<たんもの>になっている)も、とても珍しいです。これは明治期の品。

徴古館外観。なかの造りはクラシック。机に座って、蔵書をゆっくり眺めることもできます。写真提供・徴古館

徴古館外観。なかの造りはクラシック。机に座って、蔵書をゆっくり眺めることもできます。写真提供・徴古館

いまから500年前からの歴史を、現物の朱印状や古文書でたどれるのは、すごいことですが、これは「鍋島家に伝わる所蔵品は、佐賀の地で保管して、佐賀の人たちに見てもらいたい」という鍋島家代々の考えによるもの。

実際、ほかの藩の所蔵品は東京に集められ、展示・研究されているケースもあるのですが、鍋島家ではそうせずに、鍋島様の歴史博物館「徴古館」を戦前から佐賀で開館し、毎年3月に行なわれる「佐賀城下ひなまつり」を始め、選び抜かれた展示品の中から、さまざまな展示や歴史さんぽなどの企画を行なっています。

入館料は300円。徴古館の企画展を5回観覧できる1000円の「年間パスポート」(2018年3月まで有効)を購入すれば、誰とでも共有OK。お得に観覧できます。

(取材・文 樋渡優子)

徴古館

http://www.nabeshima.or.jp/main/7.html

徴古館FB

https://www.facebook.com/nabeshima.chokokan/

※情報は2017.7.22時点のものです

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