『西郷どん』最期の戦い6 戦災で困窮する市民…大金を配り感謝された人物

西郷隆盛の生涯を描く大河ドラマ『西郷どん』。その最期の舞台となるのは、52歳の生涯を閉じることになる「西南戦争」だ。九州が戦場になった「西南戦争」を福岡の人たちはどう受け止めていたのか。

140年前の新聞を元に『西郷どん』の最期の戦いを再現してみよう。

【前回の話はこちら▼】

『西郷どん』最期の戦い5 反乱軍の蜂起で福岡は騒然

前回の筑紫新聞カルトクイズ5

この会話を聞いて藤井孫次郎は編集長に何を要望したか?
(1)文字をできるだけ大きくしてほしい
(2)漢字にできるだけ読み仮名をつけて
(3)紙面を倍くらいに大きくしてほしい

答えは…(2)漢字にできるだけ読み仮名をつけて、でした。

新聞を買いに来たお嫁さんが、「カナ以外の文字が読めない」ことを聞いた藤井孫次郎はエッセイの中で、「筑紫新聞」の編集長に対して、「カナしか読めない人もいる。編集さん。お願いします。なるたけ(漢字に読み)カナをつけてくだされ」と要望した。

物資と兵員を輸送する前線基地

「筑紫新聞」第3号(明治10年4月2日)は、戦争によって物資の集積地となった福岡の様子を克明に伝えている。

「汽船九州丸は26日、病人四百人を乗せて神戸に出帆」「汽船コレヤ号を三菱より借り入れ、26日、兵隊70余人、荷物3千余を積み込み入港」「27日、品川丸は神戸より兵隊1000人を乗せ入港」

輸送だけでなく、物資の現地調達も行なわれた。

「熊本開戦以来、荷車、人力車の往復が増え、そのため周辺の大工は、車の製造に努める様になり、荷車を作って久留米に持ってゆくと、あっという間に売れてしまう。佐賀の大工も同じ状況」

戦場に必要な物資や資材が、飛ぶように売れてゆく。

輸送は、福岡の乱の最中も途切れることなく続き、「筑紫新聞」第6号(明治10年4月10日)には、「蒸気船太平丸は…電信機、荷物積込入港…翌日、長崎に向け出帆」「コレヤ号は東京巡査四百三十六名乗込み、ほか荷物三百個を積む」と、博多港の状況を伝えている。

熊本地震の被災地への支援物資の物流拠点を福岡市に置くことを政府と熊本県が決めたことを伝える平成28年4月の新聞記事(西日本新聞社提供)

熊本地震の被災地への支援物資の物流拠点を福岡市に置くことを政府と熊本県が決めたことを伝える平成28年4月の新聞記事(西日本新聞社提供)

熊本県北部に対する物流の集積地となっていた福岡は、「西南戦争」から140年が経過した、平成28年4月の熊本大地震の際も、同じ役割を果たした。

地震によって道路交通が断絶して、現地の熊本は、住民の救援にあたる自治体の施設も被災して、被災状況の把握もできない混乱した事態となった。

熊本県下に救援物資を直送しても、受け入れ側のさばきが間に合わない。そこで、救援物資はいったん福岡市内に集積され、そこから状況に応じて熊本県の被災地に直送している。

「熊本地震 福岡からの救援 本格化 医療派遣や救助隊、給水車も」(平成28年4月16日、西日本新聞)、「支える 福岡から 被災地へ物資輸送」(平成28年4月18日、西日本新聞)、「物資拠点に旧青果市場 福岡市提供、ヘリで被災地へ」「平成28年4月17日、西日本新聞)
九州の他の地域への結節点となっている福岡は、天災と戦争という違いはあれ、西南戦争が起きた140年前と同じ役割を果たしたことになる。

熊本地震の被災地に供給する支援物資を福岡市内の小学校跡に集積していることを伝える平成28年4月の新聞記事(西日本新聞社提供)

熊本地震の被災地に供給する支援物資を福岡市内の小学校跡に集積していることを伝える平成28年4月の新聞記事(西日本新聞社提供)

戦災の市民を救済する人々

戦災も天災も、甚大な被害を受けるのはいつの世も一般市民だった。放火や戦火で家を失い、その日の暮らしにも困ることになった人が福岡にも多数現れた。

明治10年当時、公的な救済機関はまだなかった。被災者救援に立ち上がったのは、博多商人など地元の篤志家やお金持ちだった。旧藩主である場合も含まれる。旧藩主の場合は、旧領民の苦しみを見るにみかねて、という意味と、明治政府に対して異心がないことを表明する意味合いと、双方が含まれていたはずだ。

戦争の被災者に寄付や支援の広がりを伝える筑紫新聞の記事(西日本新聞社提供)

戦争の被災者に寄付や支援の広がりを伝える筑紫新聞の記事(西日本新聞社提供)

「筑紫新聞」は、戦争の最中にあった人々の善行や社会奉仕を数多く紹介している。

被災した人々への米や食糧の現物提供もあれば、多額のお金を融通して被災民を助けようとした人物も出現した。

なかでも博多商人の一人、中村清三さんは、家を失うなど被災した人々が、当座の生活のしのぎになるようにと、大金を配って感謝されたと、「筑紫新聞」第3号(明治10年4月2日)が報じている。

「中村清三さんは、福岡の乱によって被災した人々に600円という大金を施した。実に感涙」。

600円という金額は、現在どのくらいの金額だろうか。同じ「筑紫新聞」に物価を紹介するコーナーがあり、そこに米価が書いてある。「米1石が4円50銭」とあるので、600円は当時、133石の米を買える金額だ。

当時の1石が150キログラムとすると、およそ2万キログラム=20トンの米が買える計算となる。

現在のお米の販売価格を10キロ5千円だとすれば、当時の6百円は、現在の1千万円に相当する金額ということになる。

多額の私財を寄付した中村さんを「筑紫新聞」は第3号で速報した後、第6号(明治10年4月10日)では、直接本人に取材して、寄付した理由を記事にしている。

■筑紫新聞カルトクイズ6■

記者の賞賛の言葉に対して、中村さんは、なんと答えたでしょうか。
(1)親の教えを守っただけで私は何もしていない
(2)戦争が終われば商売でお金は取り返せます
(3)困ったときに助け合うのが私の考えです

答えは次回!『西郷どん』最期の戦い7 追い詰められる薩摩軍兵士

お楽しみに。

※情報は2018.6.22時点のものです

げこげこ大王28世

1997年1月から2005年12月まで、げこげこ大王7世として、カエルに特化したニュースを集めたインターネット「かえる新聞」を運営。1999年から2008年まで10年間、そこから派生したイベント「福岡かえる展」を主宰した。

2012年、げこげこ大王28世の名で、筑豊を舞台にした映画脚本「川筋男貫徹炭坑節命(かわすじおのこくわんてつたんこうぶしいのち)」が第1回松田優作賞・優秀賞を受賞。2013年、福岡市ワンミニットフィルム コンペティションで映像作品「博多手一本にやり直しはない」(古野翼監督、優秀賞受賞)の脚本を担当。地元、九州を描いた創作も続けている。

現在は、フェイスブック上で「全国かえる奉賛会」を主宰し、2018年、10年ぶりに「福岡かえる展11」を復活する。

趣味は古今東西の戦記を読むこと。西郷隆盛の最後の戦い「西南戦争」を報道した明治時代の新聞「筑紫新聞」(1877年、明治10年)の読み解きにもかかわり、当時の戦況報道を検証している。

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