『西郷どん』最期の戦い9 熊本での戦いに敗れる

西郷隆盛の生涯を描く大河ドラマ『西郷どん』。その最期の舞台となるのは、51歳の生涯を閉じることになる「西南戦争」だ。九州が戦場になった「西南戦争」を福岡の人たちはどう受け止めていたのか。

140年前の新聞を元に『西郷どん』の最期の戦いを再現してみよう。

【前回の話はこちら▼】

『西郷どん』最期の戦い8 戦争に乗じて大もうけする商人が続出

前回の筑紫新聞カルトクイズ8

「筑紫新聞」が現代人に読めない新聞となっている原因は?

(1)誤字と誤植が多く想像しながら読む必要があるため

(2)原本が虫食いだらけで肉眼では大部分読めないから

(3)読みやすくするために仮名を採用したため

答えは(3)でした。

 

現代人が読めない新聞

「筑紫新聞」は、発行期間が1年未満で、わずか35号しか現存していない。閲覧しようと思えば、福岡県立図書館や国立国会図書館などで、マイクロフィルムや画像データを閲覧できる。ページをめくるだけなら10分もかからない。

しかし、すべてを読み通した現代人は、とても少ない。その理由は「筑紫新聞」が採用した《ひらがな》に原因する。

明治10年、全国共通の《ひらがな》はまだ制定されていなかった。

《ひらがな》が使われ始めたのは、古くは平安時代とも言われる。漢字をもとにしてできたのだが、もとになった漢字の選択は、地域ごと、時代ごとに違っていた。

つまり、全国各地に、それぞれバラバラの《ひらがな》が存在していたのだ。

全国共通の《ひらがな》が制定されるのは、「筑紫新聞」の発刊より20年以上後になる明治33年(1900年)、小学校令施行規則で定められてからの話だ。ここで初めて現在、私たちが普通に使っている48種の文字が《ひらがな》と制式採用された。

この時期以降、48種に入れなかった各地の《ひらがな》を、《変体仮名》と呼ぶことになる。

「筑紫新聞」は、多くの市民に読んでもらうために、福岡周辺で使われていた《変体仮名》を採用した結果、現代の私たちには、読めない新聞となってしまった。

薩摩軍兵士の姿=西日本新聞社提供

銃弾を節約する薩摩軍

「西郷どん」が率いる薩摩軍の情況について「筑紫新聞第9号」(明治10年4月19日)は、官軍の発表と戦地から戻ってきた人物からの聞き取りを交えて、多角的に紹介している。

 新聞は数日ごとの情報をまとめる形で発行されている。時系列順に並び替えると、まず、「戦地より帰りし人の演説」を紹介し、薩摩軍の動向を報じている。

 「(薩摩軍が)熊本城包囲のため、坪井川を堰きとめ、城下一帯は海のようになっている…熊本城内の官軍は食糧が乏しくなり、(1日あたり?)握り飯1つにパンが2つ、このままでは3月20日くらいまでしか持ちこたえられないだろう…」と、熊本城を守備する官軍の苦境を伝える。

 一方で、「薩摩軍の弾薬も尽きようとしている。その証拠に官軍と交戦する際に、官軍の発砲が10発とすると、薩摩軍の反撃は1、2発という具合だ…しかし、ここぞという場合は、官軍に劣らず雨のごとく発砲する」。

 戦意なお旺盛だが、弾薬を節約しながら戦う薩摩軍の動きを伝えている。

薩摩軍の攻撃から守りぬいた熊本城と谷干城・熊本鎮台司令官=西日本新聞社提供

薩摩軍の攻撃から守りぬいた熊本城と谷干城・熊本鎮台司令官=西日本新聞社提供

官軍が熊本城の守備隊と連絡

戦況全般は、官軍優位に進む。
 渡辺清・福岡県令の「県達」を紹介する。「3月22日、官軍は熊本城を包囲する薩摩軍を八代口より攻撃…4月14日、川尻より進撃し、薩摩軍を撃破して進み、ついに孤立していた熊本城の官軍と連絡した。この結果、熊本県北部に展開していた薩摩軍は、背後を断たれて潰走した」。

 2月20日からおよそ2ヶ月間にわたった薩摩軍の熊本城攻囲は、官軍の反撃でついに解かれ、「4月17日、征討総督本営を熊本城に移す」と、「筑紫新聞」は、官軍司令部の熊本入城を伝える。薩摩軍の攻勢は全面的に頓挫し、戦局は官軍の優位に定まった。

劣勢の中「西郷どん」負傷兵を見舞う

 薩摩軍側の野戦病院に雇われた女性の証言として、西郷隆盛の動向も伝えている。
 「筑紫新聞第13号」(明治10年5月1日)で「(西郷どんは)4月13日、3人引きの人力車に乗り、私学校生徒30人ばかりを率いて、銃弾に倒れた薩摩軍の兵士を野戦病院に見舞った」。

「福岡の乱」で斬首された武部小四郎らの墓=昭和31年2月、福岡市の崇福寺=西日本新聞社提供

福岡の乱の首謀者たちの処刑

 一方、「西郷どん」が起こした西南戦争に呼応して決起した「福岡党」の首謀者たちは、戦いに敗れて各地に逃亡したが、警察の捜査で所在を突き止められて次々と逮捕されていった。

 元士族の越智彦四郎、武部小四郎は首謀者として取調べの後にただちに処刑された。

 越智も武部も藩校・修猷館(現在の福岡県立修猷館高校の前身)に学び、戊辰戦争では福岡藩の一員として活躍した。その後、自由民権運動の活動家となり、明治維新には、さらなる変革が必要だとしていた。

 「筑紫新聞第15号」(明治10年5月7日)には、武部小四郎の処刑=斬首=の様子を詳細に記事にしている。

■筑紫新聞カルトクイズ9■

「筑紫新聞」が報じた武部小四郎は、処刑の際にどのような行動をとったのか。

(1)ライオンが吼えるような声で「行くぞオォーーオオオーー」と絶叫した
(2)刑場に臨み執行人に丁寧に挨拶し平常と異なることがなかった
(3)処刑される不当を批判し大いに怒り大暴れした

答えは次回!『西郷どん』最期の戦い10 福岡の同調者たちの処刑

※情報は2018.7.6時点のものです

げこげこ大王28世

1997年1月から2005年12月まで、げこげこ大王7世として、カエルに特化したニュースを集めたインターネット「かえる新聞」を運営。1999年から2008年まで10年間、そこから派生したイベント「福岡かえる展」を主宰した。

2012年、げこげこ大王28世の名で、筑豊を舞台にした映画脚本「川筋男貫徹炭坑節命(かわすじおのこくわんてつたんこうぶしいのち)」が第1回松田優作賞・優秀賞を受賞。2013年、福岡市ワンミニットフィルム コンペティションで映像作品「博多手一本にやり直しはない」(古野翼監督、優秀賞受賞)の脚本を担当。地元、九州を描いた創作も続けている。

現在は、フェイスブック上で「全国かえる奉賛会」を主宰し、2018年、10年ぶりに「福岡かえる展11」を復活する。

趣味は古今東西の戦記を読むこと。西郷隆盛の最後の戦い「西南戦争」を報道した明治時代の新聞「筑紫新聞」(1877年、明治10年)の読み解きにもかかわり、当時の戦況報道を検証している。

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