『西郷どん』最期の戦い12 大河ドラマでは西南戦争を描くのか

西郷隆盛の生涯を描く大河ドラマ『西郷どん』。その最期の舞台となるのは、51歳の生涯を閉じることになる「西南戦争」だ。九州が戦場になった「西南戦争」を福岡の人たちはどう受け止めていたのか。

140年前の新聞を元に『西郷どん』の最期の戦いを再現してみよう。

【前回の話はこちら▼】

『西郷どん』最期の戦い11 官軍が鹿児島に乗込んだ

■筑紫新聞カルトクイズ11■

 官軍として乗り込んできたのは、薩摩出身の将軍たちだった。鹿児島の人々は、官軍をどのように迎えたのでしょう。

(1)一部に歓迎する市民がいて協力する人もいた

(2)官軍の優勢を知っていて意外なことに大歓迎された

(3)市内からいなくなり誰も協力しなかった

答えは、(3)市内からいなくなり誰も協力しなかった、でした。

誰一人として官軍のためには働かない

 官軍の将軍として薩摩軍の根拠地・鹿児島を制圧しに来たのは、「西郷どん」と同じ薩摩生まれの高島鞆之助少将や大山巌少将だった。人々は敵意をこめて無言で拒絶した。

 防御陣地構築にあたり、熊本県下では労働者を雇うことも可能だったが、鹿児島では違った。

 「筑紫新聞第19号」(明治10年5月22日)によると。

 「市民は残らず市街から立ち退き、誰一人として官軍のために働く者はなく…」
 有償での労働もお断り。誰も協力しなかったのだ。

 しかも「物資の調達もできない有様で…労働者はもちろん草鞋(わらじ)一足にいたるまでことごとくすべてを熊本地方から運送」しなければならなかった。

 鹿児島県人にとって、西郷隆盛を討伐しようとする官軍は、明確な敵だった。

 続く記事には、官軍は旧城を占領したが、その周りを敵意むき出しの市民が包囲しているような状態で、「それはちょうど、4月まで敵中に孤立していた熊本城のような有様だ」だと伝えている。

 

写真は、平成19年、田原坂資料館に展示されていた薩軍の服装。木綿の着物は水を吸いやすく、雨の中の戦闘で苦戦を強いられた

原作「西郷どん!」は西南戦争の描写は少ない

テレビドラマ「西郷どん」の原作となっている林真理子さん著「西郷どん!」を読むと、西南戦争の描写がほとんどない。

小説の全体が、西郷どんと愛加那の子供・菊次郎が、父・西郷隆盛について回想する、という構成となっている。
現実の菊次郎自身、17歳の時に「西南戦争」に従軍して負傷、右足切断の重傷を負っているが、「西南戦争」については、割と淡白な描写をしただけで物語は幕引きとなる。

脚本家の中園ミホさんが、原作を読んだ上で、西南戦争をどのように描くのか、別に構想しない限り、西南戦争の詳細が描かれることはなさそうだ。

現実の戦争は、悲惨の連続だ。美しいものは何もない。戦場となった市町村は戦災で壊滅し、9ヶ月の間に、官軍と薩摩軍で1万3千人が戦死した。同じ九州の人々が敵味方に分かれて戦った日々を伝えても、テレビドラマとしては凄絶すぎて今の視聴者には受け入れられないだろう。

過去には、西南戦争だけで2時間ドラマが作られている。歴史的に見ても劇的な場面も多い。それだけに、西南戦争をドラマの最終的な山場としてしまうと、今回の放送で描いている男女をからめた人間ドラマが、すべて断ち切られるような凄絶さを描かねばならない。女性が介在する余地も乏しい。

激戦地だった田原坂頂上の慰霊碑には、西南戦争を通じて亡くなった薩摩軍、官軍、犠牲になった地元住民、約1万4千人の名が刻まれている=西日本新聞社提供

現実の「西郷どん」は、薩摩軍と各地の士族たちを率いて熊本を攻め、決戦に敗れて宮崎の山間部を転戦し、最後は故郷の鹿児島に追い詰められ、銃弾を受けて倒れ、別府晋介の介錯で首を断たれ、血まみれとなって死んだ。

「薩摩軍が人吉を奪回」と誤報出す

熊本城の包囲を解き、官軍に攻められて後退を続けていた薩摩軍は、活路を開くため、熊本県南部で持久する本隊とは別に、大分県に小編成の別働隊を送り、臼杵や竹田で遊撃戦を展開、それを追う官軍との間に次々と新たな戦場を作り出した。

「筑紫新聞第23号」(明治10年6月1日)は、戦場となった大分県竹田の状況を報道している。

「5月29日午前3時より、官軍が(薩摩軍が占領している)大分県の竹田に進撃…午前5時に至り薩摩軍が退却をはじめ…竹田市中一面が火炎となり午後3時に至りようやく鎮火した…およそ家数千軒あまりが焼失。老幼の焼死もあったと聞く」

戦災で竹田は、10時間にわたって燃え、多数の家屋と人命が失われた。

官軍は、神出鬼没の薩摩軍を各地に迎え撃っていたが「筑紫新聞第30号」(明治10年6月22日)は、「6月13日、人吉口の官軍は、…薩摩軍の反撃にあって大いに苦戦。6月15日には人吉はすべて薩摩軍に奪回された」と報道した。

「筑紫新聞」の弱点は、記者が直接取材したものではなく、戦場に出入りする関係者から取材した2次情報=伝聞=を基にしていた。不確実な伝聞情報も掲載していた。

この「薩摩軍の人吉奪回」の記事も、「報知者」からの情報をもとにしたのだが、誤報とされた。誤報の責任を負わねばならない。当時の仮編集長は、その後どうなったのか?

■筑紫新聞カルトクイズ12■

(1)仮編集長は社内会議で責任を問われて辞職した

(2)仮編集長は警察署に呼び出されて取調べを受けた

(3)仮編集長は読者を集めて真実を伝えた

答えは次回、『西郷どん』最期の戦い13 「薩摩軍勝利」の記事を出したら警察に呼び出された

※情報は2018.7.25時点のものです

げこげこ大王28世

1997年1月から2005年12月まで、げこげこ大王7世として、カエルに特化したニュースを集めたインターネット「かえる新聞」を運営。1999年から2008年まで10年間、そこから派生したイベント「福岡かえる展」を主宰した。

2012年、げこげこ大王28世の名で、筑豊を舞台にした映画脚本「川筋男貫徹炭坑節命(かわすじおのこくわんてつたんこうぶしいのち)」が第1回松田優作賞・優秀賞を受賞。2013年、福岡市ワンミニットフィルム コンペティションで映像作品「博多手一本にやり直しはない」(古野翼監督、優秀賞受賞)の脚本を担当。地元、九州を描いた創作も続けている。

現在は、フェイスブック上で「全国かえる奉賛会」を主宰し、2018年、10年ぶりに「福岡かえる展11」を復活する。

趣味は古今東西の戦記を読むこと。西郷隆盛の最後の戦い「西南戦争」を報道した明治時代の新聞「筑紫新聞」(1877年、明治10年)の読み解きにもかかわり、当時の戦況報道を検証している。

この記事もおすすめ