『西郷どん』最期の戦い14 両目に毒薬、親指を切断する青年

西郷隆盛の生涯を描く大河ドラマ『西郷どん』。その最期の舞台となるのは、51歳の生涯を閉じることになる「西南戦争」だ。九州が戦場になった「西南戦争」を福岡の人たちはどう受け止めていたのか。

140年前の新聞を元に『西郷どん』の最期の戦いを再現してみよう。

【前回の話はこちら▼】

『西郷どん』最期の戦い13 「薩摩軍勝利」の記事を出したら警察に呼び出された

■筑紫新聞カルトクイズ13■

福岡県南部の筑後地方は、「西南戦争」の戦場に近いのだが、ここでは他の地域と目だって違う動きが多発していた。いったいどんなことが起きていたのだろうか。

(1)官軍勝利によって率先して徴兵に応じる青年でごった返した

(2)兵役を逃れようと不合格目指して自傷する青年が多くいた

(3)官軍の制服が着てみたいと体験入隊する人が相次いだ

正解は(2)兵役を逃れようと不合格目指して自傷する青年が多くいた、でした。

 

大正12年ごろの徴兵検査風景=西日本新聞提供

大正12年ごろの徴兵検査風景=西日本新聞提供

 

両目に毒薬を注ぎ親指を切断する青年

「筑紫新聞第31号」(明治10年6月5日)には、徴兵体格検査で不合格を目指す青年が多いことを嘆いた記事を掲載している。

「両眼に毒薬を注いで腫れふさがって失明を試みる者」。「右の親指を切断する者」。「肌に漆(うるし)を塗って全身が腫れてしまった者」。

徴兵検査を前に、不合格を目指して自傷する青年が多いことを伝えている。

「西南戦争」の最中に行なわれる徴兵検査は、健康に問題ないと判定されると、ただちに兵役につく。戦地に近い筑後地方で兵役につくことは、そのまま戦場に出ることを意味する。

「兵士になることは命を捨てるべきことになる。…なるほど筑後の青年たちは、数千の死傷を目撃せしことなれば、免れたきはもっともなれども…」

戦争を目の当たりにし、戦場の悲惨な有様を見聞きし、戦争で死傷した兵士を身近に知る筑後地方の青年たちは、「戦争に行きたくない」という気持ちが強かったのも当然のことだった。

「筑紫新聞」は、その気持ちはよく分かる、としながらも、だからといって健康な体を自分で傷つけて一生を送るよりは、兵役について「男子の本分」を尽くしたほうが、まだよいではないかと締めくくっている。

官軍兵士に対する太政官からの弔慰金の支給通知と警察からの慰労手当金通知

官軍兵士に対する太政官からの弔慰金の支給通知と警察からの慰労手当金通知

「西南戦争」は、地方で群発していた「不平士族」による散発的な反乱ではなく、明治維新の功労者で陸軍元帥をつとめた西郷隆盛と、隆盛に私淑していた名だたる軍人らによる反乱だった。

陸軍少将だった桐野利秋、天皇陛下の信任も篤く近衛長官だった篠原国幹、陸軍少佐だった別府晋介、宮内大丞(宮内省の役人)だった村田新八。いずれも西郷隆盛が辞職して鹿児島に戻ることを決めた時に、天皇陛下をはじめ周囲の引き留めを断り、躊躇することなく「西郷どん」と行動を共にした。

それだけに、薩摩軍の将軍たちの知名度は抜群で、東京や大阪の人々は、まるで芝居の役者を見るかのような気持ちもあったのかもしれない。「西南戦争」を描いた極彩色錦絵も多く伝わっている。

「薩軍将校を中心としたブロマイドの如き錦絵も作られたのは、戦場を遠く離れた東京や大阪の人々にとって、西南戦争が《対岸の火事》としか見ていなかったとの思いを強くする」(生住准教授)

熊本市北区植木町の田原坂公園にある「崇烈碑」。西南戦争の戦勝を記念した碑で、政府が公式に建てた唯一の記念碑という=西日本新聞提供

熊本市北区植木町の田原坂公園にある「崇烈碑」。西南戦争の戦勝を記念した碑で、政府が公式に建てた唯一の記念碑という=西日本新聞提供

新任の鹿児島県令を見て逃げ出す村人たち

これに対して「筑紫新聞」は、「身に迫りつつある戦火への危機感が新聞創刊の原動力となったというべきか…戦地のそばから報道し続けた」(大庭教授)。

戦争に苛まれる地域の人々の苦悩が数多く記録されている。

鹿児島県は、県令(現在の県知事に相当)大山綱良を先頭に、県をあげて西郷隆盛の決起に同調したため、大山県令は解任され逮捕された。

「筑紫新聞第35号」(明治10年7月8日)には、後任の県令・岩村通俊が6月23日に戦火に見舞われた鹿児島県高見村、武村に入った様子を伝えている。

「…(岩村県令は)随行のものに握り飯5百個から6百個を背負わせ巡回した…焼け残った家々に老人子供などの農民たちが大勢、乱を避けて集まっていたが、県令のおでましを見て、逃げ出すものもいた」

人々は、後任の県令は、高知県出身のよそ者ということもあり、なお、薩摩軍を鎮圧する政府側の人間と認識したため、一度は逃げたという。

岩村県令は人々を呼び戻して演説した

岩村県令は、人々を呼び戻すと「私は鹿児島の県令で、あなた方を保護する立場だから、決して恐れる必要はない。昨日の戦いでこの村も大変なことになっていて、つらいでしょう。まずは食事をしてください」と演説した。

岩村県令の言葉を聞いた人々は、どのようにしたか。

■筑紫新聞カルトクイズ14■

(1)その場で餓えた子供のように握り飯を食べた

(2)その場で政府の握り飯は食べないと拒絶した

(3)その場では食べず県令がいなくなって食べた

答えは次回、お楽しみに。


番外編!「西郷どん」や戦争テーマにした錦絵

明治維新から150周年、大河ドラマ「西郷どん」の放送も続き、西南戦争をテーマにした企画も全国的に多く見られる。

今回、「筑紫新聞」の変体仮名の現代かな訳をしていただいた、久留米大学文学部の大庭卓也・教授、北九州市立大学文学部の生住昌大・准教授も、西日本各地の企画展に関わっている。

「西南戦争-かけめぐる情報」
日時:7月18日から9月22日まで
場所:福岡共同公文書館(福岡県筑紫野市上古賀1の3の1)

大庭教授が資料展示などに協力し、生住准教授は、同館で7月28日(土)14時から「報じられた西南戦争-新聞・実録・錦絵」と題して講演する。


「西南戦争浮世絵 さようなら西郷どん」

日時:7月21日から10月14日
場所:海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡701)

西南戦争を伝えた浮世絵を集めた企画展で、こちらも生住・准教授が関わっている。

※情報は2018.7.27時点のものです

げこげこ大王28世

1997年1月から2005年12月まで、げこげこ大王7世として、カエルに特化したニュースを集めたインターネット「かえる新聞」を運営。1999年から2008年まで10年間、そこから派生したイベント「福岡かえる展」を主宰した。

2012年、げこげこ大王28世の名で、筑豊を舞台にした映画脚本「川筋男貫徹炭坑節命(かわすじおのこくわんてつたんこうぶしいのち)」が第1回松田優作賞・優秀賞を受賞。2013年、福岡市ワンミニットフィルム コンペティションで映像作品「博多手一本にやり直しはない」(古野翼監督、優秀賞受賞)の脚本を担当。地元、九州を描いた創作も続けている。

現在は、フェイスブック上で「全国かえる奉賛会」を主宰し、2018年、10年ぶりに「福岡かえる展11」を復活する。

趣味は古今東西の戦記を読むこと。西郷隆盛の最後の戦い「西南戦争」を報道した明治時代の新聞「筑紫新聞」(1877年、明治10年)の読み解きにもかかわり、当時の戦況報道を検証している。

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