『西郷どん』最期の戦い15 論考が指摘した西郷の「魔力」とは

西郷隆盛の生涯を描く大河ドラマ『西郷どん』。その最期の舞台となるのは、51歳の生涯を閉じることになる「西南戦争」だ。九州が戦場になった「西南戦争」を福岡の人たちはどう受け止めていたのか。

140年前の新聞を元に『西郷どん』の最期の戦いを再現してみよう。

【前回の話はこちら▼】

『西郷どん』最期の戦い14 両目に毒薬、親指を切断する青年

岩村県令は、人々を呼び戻すと「私は鹿児島の県令で、あなた方を保護する立場だから、決して恐れる必要はない。昨日の戦いでこの村も大変なことになっていて、つらいでしょう。まずは食事をしてください」と話した。

岩村県令の言葉を聞いた人々は、どのようにしたか。

■筑紫新聞カルトクイズ14■

(1)その場で餓えた子供のように握り飯を食べた

(2)その場で政府の握り飯は食べないと拒絶した

(3)その場では食べず県令がいなくなって食べた

正解は、(1)その場で餓えた子供のように握り飯を食べた、でした。

握り飯をいっぺんに2個丸呑み

岩村県令の言葉は村人の警戒を解いた。そして村人は堰を切ったように訴えた。
「私は昨日の朝から食べてません」「私は昼から食べていません」

岩村県令は「大いに人々をいたわり…そうだと思っていました。あなた方のために、ここに握り飯を持ってきているので、食べてください」と準備した握り飯を配ると、「…人々はそぞろに涙を流し、餓えた子供のように、握り飯をてんでに掴んで食べ、中には2個の握り飯をいっぺんに口に入れて丸呑みする人もいた」

「筑紫新聞第35号」(明治10年7月8日)は、そのように伝えている。

軍票「西郷札」の逸話が伝わる西郷隆盛宿陣跡資料館(宮崎県延岡市)。背後に西郷隆盛が官軍の包囲を脱出した可愛岳=西日本新聞社提供

軍票「西郷札」の逸話が伝わる西郷隆盛宿陣跡資料館(宮崎県延岡市)。背後に西郷隆盛が官軍の包囲を脱出した可愛岳=西日本新聞社提供

要職を捨てて「西郷どん」に従う人々

ところで、この連載では、「薩摩軍」「薩軍」「西郷隆盛」「西郷どん」と翻訳しているが、原文はそうではない。

「筑紫新聞」は、薩摩軍のことを一貫して「賊」「賊軍」「薩賊」「暴徒」と表記している。西郷隆盛についても、悪事を働く首謀者「首魁(しゅかい)」、あるいは「西郷」と呼び捨てで表記している。

報道は一貫して明治政府の側に立ち、官軍は正義であり、反乱した薩摩軍は不正義である、敗亡するのは反乱軍の宿命。正義の官軍は賊軍を各地に制圧し続けている、という立場からの報道だ。

ではなぜ、西郷隆盛のもとで戦いに死力を尽くす人々がいるのか。なぜ西郷隆盛のために、天皇陛下の慰留にも耳を貸さず(篠原国幹の近衛長官の辞職)、大久保利通の驚きをも招き(村田新八の宮内庁辞職)、要職をなげうって「西郷どん」と運命を共にする人々がいるのか。「筑紫新聞」は、そのことに思いを巡らせている。

無名時代の福本日南の投書を掲載

「筑紫新聞第19号」(明治10年5月25日)に「東京司法省内法学生 福本巴ナル者ヨリ、過日来、別紙書翰郵送セリ」とある。

「無名の学生さんが西南戦争と福岡の変についての論文を書いて寄越したので、読むと優れた内容なので掲載します」

論文が優れているのは、それもそのはず。学生、福本巴は、後年の福本日南(安政4年~大正元年)で、のちに「新聞日本」で政治評論を行なう記者となり、その後は、「九州日報」(明治38年~昭和17年)の主筆兼社長を経て、衆議院議員にもなった人物の若書きの論考だった。

「…西郷隆盛の戦いに刺激を受けて福岡の一部の士族も同調して失敗し、刑死したり死没したりしている。…彼らが尊敬している西郷隆盛は、明治維新ですぐれた働きをしたのは事実であるが…今回のように武力を用いて明治政府に戦いを仕掛ける方法は誤っている。西郷隆盛は、今は昔の彼ではない。福岡の有為な人々が、西郷に同調して軽挙妄動をすることは避けるべきだ…」

論文は「筑紫新聞第22号」(明治10年5月28日)にも続き、「…福岡の変で刑死した彼らは、私が福岡で一緒に文武を学んだ間柄で、とても有為な青年たちだった。…西南戦争が起きる前、旧藩主の黒田公が心配のあまり、わざわざ福岡に出向いて彼らに会い、全国各地で起きている不平士族の反乱などに加担しないよう、念入りに伝えたはずなのに、3百年間の治世で代々世話になった黒田公の言を聞き入れず、なぜ西郷隆盛に心酔してしまったのか…」と嘆いている。

福本巴も指摘する「西郷どん」の魔力について、「筑紫新聞」は、自問するような特集記事や解説をたびたび掲載してもいる。
「筑紫新聞第23号」(明治10年6月1日)は「稟告」=解説記事として、次のような問いかけを投げかける。

「西郷隆盛の挙兵には名分もなければ意味もない。…(逆賊として戦って)戦死しても不名誉な犬死ではないか…それにもかかわらず、兵士は彼のために死んでもいいと忠誠を誓っている。それはどうしてなのか。西郷の人柄に惹かれたのか。個人的な恩義があるのか…」

西郷隆盛が設立した「私学校跡」。西南戦争の最後の日、私学校に立てこもる薩摩軍にも政府軍が総攻撃をかけた。石垣には無数の銃弾の跡が残る=西日本新聞社提供

西郷隆盛が設立した「私学校跡」。西南戦争の最後の日、私学校に立てこもる薩摩軍にも政府軍が総攻撃をかけた。石垣には無数の銃弾の跡が残る=西日本新聞社提供

■筑紫新聞カルトクイズ15■

賊軍の「西郷どん」に忠誠を尽くす人々が、なぜ存在するのか。「筑紫新聞」は分析を試みて、その結末をどのように結んだのでしょうか。

(1)西郷隆盛に脅迫されて仕方なく従っているのだとした

(2)西郷隆盛の考えに心酔する人が多かったとした

(3)新聞社には解らないので解説できる人がいれば投書してほしいと呼びかけた

答えは次回、お楽しみに。

※情報は2018.7.31時点のものです

げこげこ大王28世

1997年1月から2005年12月まで、げこげこ大王7世として、カエルに特化したニュースを集めたインターネット「かえる新聞」を運営。1999年から2008年まで10年間、そこから派生したイベント「福岡かえる展」を主宰した。

2012年、げこげこ大王28世の名で、筑豊を舞台にした映画脚本「川筋男貫徹炭坑節命(かわすじおのこくわんてつたんこうぶしいのち)」が第1回松田優作賞・優秀賞を受賞。2013年、福岡市ワンミニットフィルム コンペティションで映像作品「博多手一本にやり直しはない」(古野翼監督、優秀賞受賞)の脚本を担当。地元、九州を描いた創作も続けている。

現在は、フェイスブック上で「全国かえる奉賛会」を主宰し、2018年、10年ぶりに「福岡かえる展11」を復活する。

趣味は古今東西の戦記を読むこと。西郷隆盛の最後の戦い「西南戦争」を報道した明治時代の新聞「筑紫新聞」(1877年、明治10年)の読み解きにもかかわり、当時の戦況報道を検証している。

この記事もおすすめ